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明治村:名鉄岩倉変電所 [風景・建物]

名鉄岩倉変電所.JPG

明治村にて明哲岩倉変電所を撮影。

明治45年(大正元年)に名古屋電気鉄道が犬山線を開通させたのに伴い、この岩倉変電所が建てられた。
内部に大きな変電用機械を収容するため、背の高い煉瓦造建物になっており、屋根には天然スレートを葺いている。小屋組は木造クイーンポストトラスで、小屋裏を露出とし、陸梁受は御影石で、煉瓦壁の頂部にはめ込まれている。
レンガ造建築の構造がそのまま意匠となる。出入口や縦長の大きな窓は半円アーチとし、色の濃い焼過ぎ煉瓦を上下4段の帯として入れている。建物四隅から前後左右にバットレス(控壁)を出している。建物背面の意匠が個性的である。
原石、人造石の使い分けがなされ、半円アーチの要石、バットレスの笠石には御影石を使い、入口の扉上横架材、窓台、妻壁笠石などは洗出し或いは研ぎ出しの人造石である。

移築に当たり、構造躯体を鉄筋コンクリートに改め、外装にはレンガタイルが張られている。


明治村:宮津裁判所法廷 [風景・建物]

宮津裁判所法廷.JPG

明治村にて宮津裁判所法廷を撮影。

明治19年に京都府宮津市本町に宮津裁判所は建設され、この法廷はその一部が移築されたものである。

控訴裁判所などの上級審が洋風レンガ造で造られたのに対し、和洋折衷の木造で建てられた。立式を採用した法廷内部や、窓、出入口などに洋風の影響を見ることができるが、明治村の中の他の多くの和洋折衷建物がペンキ塗であるのに対し、この建物は素地のままであり、和風の意識が強いことを表している。
宮津裁判所全体の形は左右対称のH型で、中央に二階建の管理棟、左右両翼に法廷棟が配されていた。管理棟には、玄関、応接所、正庁、会議室などがあり、法廷棟には法廷のほか予審廷、検事調所があった。明治村に移築されているのは、右翼の刑事法廷棟である。
法廷内、検事調所内ともに、裁判官、検事、書記の席を設置する著しく高い上段と被告人と弁護人が置かれる下段に分かれ、天井が高い。本屋根軒下の小壁を広く明かり窓として室内を明るくしている。回廊部の外壁は、腰壁を押縁縦板張とし、高窓を配して白漆喰を塗る。回廊以外の外壁は下見板張である。回廊に開く法廷入口はアーチ型に作られている。


明治村:シアトル日系福音教会 [風景・建物]

シアトル日系福音教会.JPG

明治村にてシアトル日系福音教会を撮影。

20世紀初頭、アメリカ東海岸シアトルは漁業と林業の基地として発展した。その高台の新興住宅地に建てられた建物である。大量生産規格木材で作られており、2×4(2インチ×4インチ)工法の先駆的な実例である。屋根には地元産のそぎ板を葺き、外壁、床等は全て下地板と仕上げ板の二重張りになっている。
当初はアメリカ人住居であったが、1930年代(昭和5~14)に日系移民の所有となった。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家であったが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われ た。戦後は日系一世のための福音教会として使われてきたが、一世の高齢化と減少という時の流れの中でそ の役目を終え、明治村に移築された。

1階を高床にし、地下室を設けている。1階床は2×10の構造材を根太に並べ荒床板を斜めに張って床下地とし、仕上げ板を張り重ねる。2階床には2×8の材を根太として並べる。小屋組材は2×4の材で、屋根はアメリカ杉の割板葺きである。玄関側と背面の両妻屋根面に屋根窓を載せているが、飾りに過ぎない。外壁は2×4を約40cm間隔に建て、捨て板を張り、更に下見板を張ってペンキ塗り仕上げである。内壁は木摺り打ち漆喰塗り仕上げである。上げ下げ窓は上下の建具長さが異なり、開口幅が狭い。
内外の飾り(軒飾り、手摺、窓台等)は既製品を取り付けている。玄関ポーチの太い柱は、2×4四本を立てて板で囲って箱型の柱に作る。

 玄関ホール正面に二階への階段が設けられている。細かい細工が施された階段の親柱は、プレハブ建築の通例通り、単に床の上に置かれているだけで、床下から釘止めされている。又、細かい細工も彫刻ではなく、細い木材を釘止めして作られたものである。
 玄関ホール横の会堂は、住宅として使われていた時には二つの居間に分かれていたが、間仕切扉が散逸してしまっているため復原できなかった。規格木材を釘打ちして造る2×4構法では、仕口、継手の痕跡がないため、改造個所の元の姿を推定することが難しい。


明治村:御料車 [風景・建物]

明治天皇御料車.JPG御料車内部1.JPG御料車内部2.JPG御料車内部3.JPG御料車内部4.JPG

明治村にて明治天皇御料車(6号御料車)、昭憲皇太后御料車(5号御料車)を撮影。

御料車とは天皇・皇后・皇太后・皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌である。全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。

この明治天皇御料車は明治時代に製造された6両の御料車のうち一番最後のものである。車輌の全長は20m余、総重量約33.5tの木製3軸ボギー車である。この車輌は歴代の御料車の中でもっとも豪華な車輌といわれ、車内天井に張られた蜀江錦、御座所内の金糸の刺繍や七宝装飾、また螺鈿装飾、木画といわれる木象嵌など日本の伝統的な工芸技術の粋を集めたものといえる。

明治天皇御料車建造100年 明治村開村45周年記念
御料車特別公開
(2010年9月18日~10月17日)

2年前に内部が公開されたのが5年ぶり3回目だそうです。普段非公開の御料車の内部を特別に公開される次の機会には是非窓越しではなく、内部から日本の伝統的な工芸技術の粋を撮影したいものです。

【鉄道模型 Nゲージ】【中古】Nゲージ/KATO 10-418 お召列車1号編成 5両セット 2007年ロット【D】1号御料車金帯色ハゲ/パーツ取付残有

御召列車 知られざる皇室専用列車の魅力

御召列車 知られざる皇室専用列車の魅力

  • 作者: 白川 淳
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  • 発売日: 2010/06/10
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明治村:三重県尋常師範学校・蔵持小学校 [風景・建物]

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明治村にて三重県尋常師範学校・蔵持小学校を撮影。

明治21年に建設され、昭和47年に解体、昭和48年に移築されたこの建物は当初、小学校教師の養成を目的とする三重県尋常師範学校の本館として津市に建てられ、その後昭和3年に名張市に移築されて蔵持小学校として使われた。

明治村へは、官庁建築に伴い左右対称形のE字型の校舎の一部、特色ある中央玄関部と右翼の2教室のみが移築された。

設計者は旧三重県庁舎(現在明治村内所在)と同じく清水義八である。玄関のアーケード、2階に設けられたベランダ、教室部の窓などに洋風建築の特徴が見られる。また、三重県庁舎と細部のデザインを比較すると、地方棟梁の洋風意匠受容の過程を知ることができる。

レイクサイド入鹿

レイクサイド入鹿

  • 場所: 愛知県犬山市喜六屋敷118
  • 特色: 周辺には、博物館明治村をはじめ、自然、歴史、文化、レジャーを存分に楽しんでいただけるスポットがいっぱいです。

明治村:近衛局本部付属舎 [風景・建物]

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明治村にて近衛局本部付属舎を撮影。

明治21年に東京都千代田区に建設され、昭和42年に解体、昭和52年に移築されたこの建物は、明治20年皇宮警察署庁舎として着工されたものだが、工事中に用途が変更され、宮城の守護と儀仗に当たる近衛局(明治22年、近衛師団と改称)の本部となったものである。付属舎であるこの建物は、その右側にある2階建本館と湯沸所兼渡廊下で連絡していた。

明治44年に師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここに移り、坂下護衛所として使用した。

木造平家建瓦葺で内外壁を白漆喰で塗りあげたこの別館は、正面に軽快なアーケードを配した開放的な建物になっており、アーチを縁どる細い水切も軽やかな印象を与えている。古図によれば、創建当初は八つのアーチの柱間に高さ90cm程の鋳鉄製の手摺があり、なお華やかなものであった。しかし、解体時には失われており、このため復原されていないが、基壇等一の所々に開けられた床下換気口の格子金具に当時のデザインの一端をしのぶことができる。


明治村:聖パウロ教会堂 [風景・建物]

聖ヨハネ教会堂1.JPG外観1

 聖ヨハネ教会堂2.JPG外観2 

聖ヨハネ教会堂:礼拝堂1.JPG礼拝堂1 

聖ヨハネ教会堂:礼拝堂2.JPG礼拝堂2 

聖ヨハネ教会堂:ステンドグラス.JPGステンドグラス

聖ヨハネ教会堂:聖洗盤.JPG聖洗盤

明治村にて聖ヨハネ教会堂を撮影。

明治40年に京都市下京区に建設され、昭和38年に解体、昭和39年に移築された重要文化財にも指定されている聖ヨハネ教会堂は1階を日曜学校や幼稚園に、2階を会堂として使用していたプロテスタントの一派日本聖公会の教会堂である。設計者は明治13年に来日したアメリカ人宣教師で建築家のガーディナーである。1階を煉瓦造、2階を木造、屋根に軽い銅板を葺いた構造は耐震性に配慮しているといえる。

正面入口の尖塔アーチに見られるように、細部はゴシック調にデザインされている。本格的な洋風建築のこの建物は、現存する明治期のキリスト教教会の代表的なものの一つである。


明治村:西郷従道邸 [風景・建物]

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明治村にて西郷従道邸を撮影。

明治10年代に東京都目黒区上目黒の西郷山に建設され、昭和38年に解体、昭和39年に移築されたこの建物は西郷隆盛の弟、西郷従道が建てた住宅のうち、接客用に設けられた洋館である。西郷従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、明治22年には明治天皇の行幸も仰いだ。

設計にはフランス人レスカスが関与していると伝えられ、建築金具や階段などをフランスから取り寄せているほか、2階には日本三景と富士山が描かれた焼き物で暖炉の額縁が装飾されている。

この建物は耐震性を高める工夫が幾つかなされている。屋根には瓦の代わりに軽い銅版が葺かれ、壁の内側にはおもり代わりに煉瓦が埋め込まれていた。


明治村:森鷗外・夏目漱石住宅 [風景・建物]

森鴎外・夏目漱石住宅.JPG森鴎外・夏目漱石住宅2.JPG

明治村にて森鷗外・夏目漱石住宅を撮影。

明治20年ごろ東京都文京区駒込千駄木町に建設され、昭和38年に解体、昭和39年に移築されたこの建物は明治の文豪森鷗外と夏目漱石が時を隔てて借りた家であるが、当初は医学士中島襄吉の新居として建てられたものである。

鷗外は明治23年から1年半ほどこの家に住み、「文づかひ」などの小説を書いた。約13年後、漱石は明治36年から約3年住み、「吾輩は猫である」を書いて文壇でその名を高めた。文中ではこの家の様子をよく描写している。

住宅としては玄関脇の張り出した和室(書斎)、台所から座敷への中廊下は住宅の近代化の先駆けと見ることができる。

なお、漱石が住んでいたころ、書斎の東北隅に幅6尺、奥行3尺で西向きの押入れがあったことを示す痕跡が発見されたが、資料不足のため復元を行っていない。

森鷗外、夏目漱石が借りた家という由緒はあるが、明治中期、東京の街中に作られた典型的な中流住宅である。

吾輩は猫である (声にだすことばえほん)

吾輩は猫である (声にだすことばえほん)

  • 作者: 夏目 漱石
  • 出版社/メーカー: ほるぷ出版
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: 大型本

明治村:東山梨郡役所 [風景・建物]

東山梨郡役所2.JPG東山梨郡役所3.JPG

明治村にて東山梨郡役所を撮影。

下はライトアップ直後です。もっと暗くなってから撮影したかったのですが、花火の打ち上げ場所への移動を考えると無理でした。

明治18年に山梨県山梨市に建設され、昭和39年に解体、昭和40年に移築された東山梨郡役所は、地方行政の整備に伴って改編された東山梨郡の新庁舎であった。当事の山梨県令(現在の知事)藤村紫朗が奨励した洋風建築のひとつであり、左右対称形や正面を廻るベランダは当時の官庁建築の典型な特徴である。

正面の列柱は洋風のフルーティング(溝彫り)を模し、壁面の出隅は煉瓦造や石造の建築によく見られる隅石積を漆喰で模している。それらは、地元の職人が洋風建築の特徴をデザインとして取り入れたものであるが、洋風の正確な姿に作られていないため、擬洋風と呼ばれている。


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